その日は朝からどんよりした日だった。 雨が、降りそうな日だった。 「おはよう、ルック。」 「・・・・・おはよう。」 ヤタが少し笑って挨拶をする。 ルックはしかめっ面でそれに応える。 いつもの朝の風景だ。 ただ、今日は何故かルックのしかめっ面が中々おさまらない。 ヤタは不思議そうに彼を見る。 すると彼はますます顔を顰めた。 「・・・ルック?僕の顔に、何かついてるか?」 「・・・・・いや。顔、というか。」 「じゃあその顰め面をやめたらどうだ。君は唯でさえ目つきが悪いんだから。」 「余計なお世話だよ。」 ルックの顔がこれまたひどいしかめっ面になる。 ヤタは申し訳なさそうに笑う。 「ごめん。ああ、フリックを知らないか?」 「・・・君、フリックの所へ行くつもり?」 「ああ。」 ―そんなものをつれてかい?― そう言おうとして、口をつぐんだ。 ”彼”が唇に人差し指をあてたから。 悪戯っぽい笑みでにっと笑って、そしてヤタのとなりに並ぶ。 ”彼”は嬉しそうに、そっとヤタの手を握った。 「・・・青いのがぶっ飛びそうだね。」 「ん?」 「何でもないよ。彼も見える類らしいから。」 「・・言ってることが的を得ないんだが・・・。」 「わからなくてもいい。ほら、さっさと行きなよ。・・また酒場だ。」 「ああ、ありがとうルック。」 階段を駆け上がっていく背中を仰ぎ見る。 そしたら”彼”はウィンクで、 『内緒、な』 そう言った。 結局酒場から悲鳴が聞こえることはなかった。 隠れたんだろう。 いつかヤタは気付くんだろうか。 ”彼”は僕の前によく現れる。 その度に 『あいつには内緒な、ルック。』 何度もそう言うんだ。白々しい。勘弁して欲しいよ。 会いたいなら、喋りたいなら、一声名前を呼んでやればいいのに。 馬鹿なやつ。 何を負い目に感じてるんだい。 『駄目だよ。俺は眺めてるだけ。 ひとたび声を交わせば魔法が消えてしまう。』 『見てるだけで充分さ。』 ”彼”はいつも嬉しそうに笑う。 本当に・・・僕は頭がおかしくなったんだろうか。 幻覚を見るほど疲れてはいないんだけど。 こめかみを押さえて目を瞑って。 もう一度開いたら やっぱりそこにはヤタの手を握って笑顔を浮かべる少年がいた。 「うおぁっ、あっちーー!」 「テッド!・・・無事だったか!!」 「ん、ヤタか?」 周りは雑然としていて、ヤタの声もかろうじて聞こえるぐらいだ。 パチパチとなにかのはぜる音。 悲鳴も聞こえる。 テッドは玄関の戸を足で乱暴に閉め、急いで外へ出た。 夜のグレッグミンスター。 煌々と燃え上がる炎が、石畳を照らしていた。 「テッド、テッド・・!ああ、本当に良かった・・! 君の家は、木造だったから・・」 「おお、慌てて出てきたぜ。 必要なもんも少なかったしな。丁度良かった。お前ん家は大丈夫なのか?」 「ああ・・。うん、なんとか・・・。」 強い南風が炎を煽る。 バチバチと音を立てながら燃えあがる火は、容赦なく街路樹に飛んでいった。 見上げたテッドの借家も、炎に包まれてもうもうと煙を吐き出している。 今にも崩れそうだ。 テッドとヤタは頷いて、無言でその場を離れた。 熱い夜だった。 南から吹く乾いた風は、まるで火に味方するように吹き荒んでいる。 グレッグミンスターをこれほどの大火事が襲うのは、とても稀な事だった。 「テオ様は?」 「バルバロッサ様の所へ行かれるらしい。 このままじゃ、街ごと丸焦げだよ。」 「・・・こんな石造りの街なのにな。」 「・・・混乱に乗じて油を撒いている男が掴まえられたよ。 一人じゃないだろう。反乱軍の手がここまでのびているのかもしれない。」 ヤタが頬を伝う汗を拭いながら呟く。 炉端の街路樹はほとんど火が燃え移り、倒れてしまった木もある。 裏路地に火が入るとそれこそ悲惨なもので、放置してあった木箱や樽に燃えうつって益々勢いを増していった。 街の住人が躍起になって火を消そうと奮闘しているが、この風の中では負傷する者も少なくない。 近衛兵は城周辺までにしか、中々消化活動の範囲を広げようとしない。 ヤタとテッドは、石畳の熱を足の裏に感じながらひたすらに走った。 やっと着いた街の中央の噴水は人がどっと押しよせて、我先にと水を汲んだり被ったりしている。 悲喜交々な雑音を押しのけながら、テッドとヤタはマクドール邸の前に急いだ。 「坊ちゃん!テッド君!!! ・・・どれだけ心配したと思っているんですかっ!!! グレミオは・・グレミオは心配で心配でもう心臓が止まるかと・・!」 「ヤタ、テッド君は大丈夫だったか。」 「はい、父上。」 「すんませんでした、テオ様。」 「いや、無事でよかった。 私はバルバロッサ様のもとへ行かねばならん。 ・・・グレミオ、クレオ!二人を頼むぞ。この機に乗じて賊が出るやもしれん。」 「お任せ下さい、テオ様。」 「このグレミオ、命に代えても!」 「うむ、行くぞパーン。」 「はいっ。」 山吹のマントが炎の向こうへ消えていく。 我知らず震える手を、ヤタは止められなかった。 こんなことは初めてだった。 戦場での父を、自分は見たことがない。 だから、戦場で常に父が死と隣り合わせているということも、正直実感がわかない。 けれど今、感じる。 反乱軍の間者は確実にこの街に散らばっているだろう。 この街は今、小さな戦場だ。 ああ、情けない。 震えが止まらない。 「・・・ヤタ、大丈夫か?」 「・・・・・・・うん。」 声も震えている? ・・・どうしたんだ、僕は。 混乱する頭。 ドキドキ煩い心臓。 けれど、次の瞬間それも全部吹っ飛んだ。 「・・・・・?」 「大丈夫だって、ヤタ。みんないるだろう?」 手を握られている。 テッドに。 その事実に僕は今までの混乱とか恐怖とか、そんなものが全て消えてしまった気がした。 だって、それはありえないことなのだから。 左手で、右手をぎゅっと握られる。 皮手袋ごしに感じる体温が不思議だ。 「な?テオ様がいないんだ、お前がしっかりしなくてどうするんだ?」 「・・・あり、がとう・・。」 「?どーいたしまして。」 街路樹は相変わらず轟々と燃えている。 「笑えよ。」 「いやだ。」 「笑えって。なに馬鹿やってんだって・・なあ。笑ってくれよ。」 「笑ってやるもんか・・・。」 「いけず。いつからそんなに意地悪になったんよ、お前。」 ああ、手が震える。 君がいなくなることに震えている。 止まらない。 止まらない。 本当は、帝国を倒すとか、虐げられた民を解放するとか、どうでも良かった。 君が戻ってきてさえくれたなら。 もう一度笑ってくれさえしたなら。 もう一度隣に立ってくれさえしたなら・・! 時間が欲しい。 君と一緒にいられる時間が欲しい。 悠久の時間など全て無意味なんだ。 君がいない時間は、ただ苦しいだけなんだ。 「大丈夫だ。」 「・・・・テ、ド。」 「俺は、ここに、いる。」 そう言って、右手を握る。 手の甲を、優しく撫ぜる。 僕は目を見開いた。 ・・・君はそれで、平気? この暗い世界で、ずっとひとり。 耐えられる? 「・・・手が、震えるんだ・・。テッド・・。」 「・・・ん?」 「・・・止まらないんだ。」 「・・・しょうがねえお坊ちゃんだなぁ・・・。」 伝わる温もり。 それほど昔のことでもないはずなんだけど、ひどく懐かしい。 少しずつ、僕の右手から漏れる闇が彼に這って行ったけど、僕は見ないフリをした。 彼も何も言わなかった。 君が生きてこの谷を出られたなら、グレッグミンスターの丘からアールスの草原を一緒に見たかった。 人々の歓喜に囲まれて、もう一度。 そして僕と君は旅に出る。 誰にも告げずこっそりと。 一緒に色んな国をまわるんだ。 君が言っていた海も見に行ける。 トランには降らない雪も見に行ける。 ・・見に行こう、テッド。 「・・見に行こう。」 「・・・ん?」 「一緒に、旅をして。 ・・海を見て、雪を見て、世界を見るんだ。 君のみた世界を、僕も見る。」 「・・・ああ。」 「約束する。この戦争が終わったら、君のみた世界を僕も見に行く。 ・・・”君”を連れて。」 「・・・・・・おう。」 闇が彼を包んだけれど、僕はそれに抗いはしなかった。 だって、約束したんだから。 君が在るこの右手と一緒に、僕は旅をする。 そう、約束したんだ。 おやすみ、テッド。 とこしえに続く優しい眠りを、君に。 --------お別れ・・・Type:B |