揺れに揺れた船旅の末に辿り着いたのは、こじんまりした庵だった。 河原の道は靴の裏にでこぼことした感触を伝えてくる。 少し踏み鳴らされている砂利道を抜けて、ヤタは上を見上げた。 ここより少し小高い場所。 岩と岩の間に、うっそりと佇んでいる庵。 河原のそばにはおざなり程度にも見える小さな畑があり、人のにおいを感じさせる。 ここには人が住んでいる。 「何だってこんな偏屈な場所に住んでるんだ。 よほどの酔狂だぞ、こりゃ。」 「言うな、ビクトール。わかっているだろう。」 「へいへい。」 しかめっ面をしたままのビクトールに軽く注意をして、ヤタは庵を見上げる。 彼の言いたいこともわからないでもない。 この庵に住む人物、リュウカンに会うために自分達は多大な労力と時間を使ったのだ。 リコンでさえ片田舎と呼ぶに相応しいのに、ここはもう既に田舎の範疇を超えている。 川の渦と深い森、そして山脈に守られた霧深き庵。 世捨て人の心をそのまま映したようなその場所に、ヤタは静かに息をついた。 ゆっくりと岩の段差を登る。 それほど高い段差はない。 ここを上り下りしている人物の年齢を考えれば、妥当であろう。 上に近づくにつれ、青い匂いが自分達の鼻をくすぐった。 やがて、古ぼけた扉が目の前に立ちはだかる。 「坊ちゃん、大丈夫です。リュウカン様はきっと手を貸してくださりますよ。」 「・・うん。そうだな、グレミオ。」 グレミオが後ろから励ますように微笑みかけてくる。 もちろん、世捨て人となってしまった彼がそう簡単に手を貸してくれるとは皆思っていない。 グレミオとて、そうだ。 けれど彼は笑って”大丈夫です”と、そう言う。 それだけで大丈夫なような気がしてしまうのだから、彼の笑顔は不思議だ。 コンコン。 控えめなノックの後、眉をよせた老人が静かに扉を開いた。 「何用か。」 小さく、しわがれた声が耳に届く。 その声には明らかな拒絶の色が含まれていた。 ヤタは老人を静かに見つめると、静かに音を吐き出した。 「・・初めまして、リュウカン殿。私は解放軍の軍主、ヤタと申します。 あなたに折り入ってお話したい事があり、ここへ参りました。」 「それは、解放軍の意思か。」 「・・・その通りです。」 老人は益々眉をしかめる。 開いた戸口の奥からは濃い草の匂いがした。 「貴様らの言いたいことなど、言わずともわかっておる。」 「では・・・」 「断らせてもらう。」 リュウカンは一刀両断に切り捨てた。 にべもないその言葉に、ビクトールを筆頭にグレミオやクレオまでもが顔を顰める。 ヤタはただ静かに、次の言葉を紡いだ。 「我々はあなたに、毒をつくってくれと言っているわけではないのです。 その毒を和らげるものをつくって欲しいだけです。」 「そして帝国の兵を殺すのであろう。同じことではないか。」 「・・・リュウカン殿とて帝国の圧制に苦しんだ一人ではないのですか。」 ヤタは息を殺して言葉を紡いだ。 卑怯だとは思った。このような話題を出した自分が。 わかっているのだ、自分達のこの願いは我が儘であると。 本当ならば断られれば、すぐさま取って返すべきなのだと。 ヤタの静かな面持ちを、リュウカンもまた静かに、しかし激しい侮蔑の面持ちで返す。 「わしは世捨て人。 なんの為にわしがここで暮らしているか判らんぐらい、頭が弱いわけではなかろう。」 あからさまなヤタへの侮蔑に、クレオが前に出ようとする。 ヤタはそれを手で制してリュウカンに向き直った。 「我々とて、無理を承知で参ったのです。 あなたが我々とはまた違う道を選んだことは重々承知しています。 こうして静かに暮らしているあなたをこのような醜い争いごとに引き込むなど、本当はしたくなかった。」 「・・・綺麗事を。」 どこまでも頑ななリュウカンに、ついにビクトールが前に出る。 「あのなあ、あんただってこの国で生まれたんだろう! この国で生まれて、戦乱をまたいで生きてきたんだろう!!この国に生かされてきたんだろう! 世を捨てたなんて、響きのいい自分勝手な言い訳で・・」 「やめないか、ビクトール!!!」 軍主の一喝で、ビクトールが黙り込む。 「老人は既にこの国に充分尽くしてこられた。 ・・そして繰り返されてきたその醜さを知ったんだ。お前がどうこう言っていいことじゃない。」 「・・・ちっ。わかったよ・・。」 リュウカンは未だ静かな面持ちで一行を見つめていた。 ヤタは、意を決したように地面に膝を着く。 ビクトールがぎょっとした。 クレオやグレミオが声を上げそうになった。 ルックが小さく鼻白んだ。 控えていた部下二人が、驚きの眼差しを向けた。 「リュウカン殿。 どうか解放軍に力を貸していただきたい。いま一時でも構いません。 ・・・どうか、我々に希望を。」 ビクトールは舌打ちした。 ・・ここに兵がいなくて良かった。 軍主が膝をつくこと。 それは、敗北を受け入れたときだけだ。 軍主とは常に毅然と、堂々と振舞うものだ。 それがこんな、神医と言えど一介の医者に膝をつき、こうべたれている。 こんなおかしなことがあろうか。 けれどビクトールは、そんなヤタが好きだった。 目的のためならちっぽけな誇りさえいとわない、そんな彼に好感を持っていた。 リュウカンはヤタを見下ろし、少しだけ優しい色をまなじりに浮かべた。 「顔を上げなされ。 かような立場の者が、そう易々と頭を下げるものではない。ましてや膝をつくなど。」 「リュウカン殿・・・」 「勘違いなされるな。 わしはもう二度と、争いなどという世迷言に付き合う気はない。 静かに暮らしたいんじゃ。わかってくれぬか。」 老人の、密やかなる願い。 ヤタは大きく息を吐く。 あきらめてはいけないのだ。 この老人には、解放軍の未来がかかっているのだから。 たとえ後々憎まれようとも。 自分は、彼を連れ帰らなければならないのだ。 ヤタは瞳を閉じた。 その瞬間。 猛々しい鳴き声と、空と地を揺るがす大きな羽音。 覚えのあるその音に、ヤタはハッと目を開いた。 大空へ舞い上がる竜。 残された空っぽの庵。 解放軍軍主は、飛び去るちいさな灯火をじっと見つめていた。 その目には後悔と、決意の光があった。 |