寺から逃げおおせた志士の数、おおよそ二十。 あの軍勢に対するとして・・それは奇跡の数だった。 ―よいなき― 日もそろそろ屋根の淵にかかる頃だ。 冬の朝は霧が濃く、人々の視界を濁す。 確かにそれは、今の志士達にとって幾分か好都合であった。 川べりを縫うように走りながら、高杉は小さく舌打つ。 もう町は動き出している。 いくら霧が濃いとはいえ、こんな大所帯でいれば否が応にも不審がられる。 高杉は橋の下までくると、後ろからついてくる志士達を片手で制した。 川向こうに床を構えている浮浪者達も、今はまだ眠っているようだ。 「おいおめぇら、これじゃあいくらなんでも目立ちすぎる。 怪我してねぇ奴は散れ。落ち合う場所は明日の夜九つ半、王子の花三番だ。」 「でも高杉さん、怪我してる奴らはどうすんだい。」 「俺がなんとか桧神のトコまで連れてく。 誰か一人使いにいってくれや。」 「わかりました、じゃあ俺が。 では、夜九つ半、王子の花三番で!!」 「おぅ。」 志士達はそれぞれ頷きあうと、土手を駆け上がって散り散りに走っていった。 今は身を潜め、天人共が落ち着くのを待たなければならない。 高杉の側には、五人程の志士が残った。 命に関わるような怪我でも、戦闘に支障がでるような怪我でもないが、けして軽んじてよい傷でもない。 朝の濃い霧はまだまだ晴れそうもなくて、高杉は内心ほっとした。 それにしても、この総身をキリキリと軋ませるような寒さには辟易する。 吐く息は真っ白になって、そのまま凍り付いてしまうのだろうかと思えるほどだ。 朝の白い光を受けてそれはキラキラと眩しく輝く。 「・・・・ったくよぉ・・。くそ寒ィ・・。」 はぁ、と。 苛立ち紛れに吐いた息も、白く凍ってしまう。 後ろを見やれば、痛みを堪えているせいか渋い顔をした志士達。 「た・・高杉さん・・。」 「あぁ、そうビビるな。 桧神のトコまでは・・そうだなァ。早くて半刻でつくだろ。 このまま川上ってきゃ着く。」 「は、はいっ。」 桧神家のある場所は両国橋を浅草側に渡って暫くした所だ。 あの場所はとくに人通りが多いが、細い路地を使えば人目につかずに辿り着けるだろう。 その点で高杉は、この辺りの地の利を頭に叩き込んでいたから心配はない。 細い、暗い、饐えた臭いのする道を進みながら、ふと高杉は思い出した。 『・・坂本の奴ァ、どうしてやがんだろうなァ。 まさか死んでるとは思わねェが。』 けれどそんな思考は二・三秒もすれば高杉の頭から綺麗さっぱり消え去っていた。 薄情なのか、それとも信用されているのか。 どっちにせよ、坂本が哀れであるのに変わりはない。 ------------------- 「・・・・ひ、ひやいのぅ!!・・高杉らぁ散りよったようじゃなぁ・・」 坂本は真っ白な世界の中、途方に暮れていた。 きっと皆どこぞで落ち合うのだろう。 志士たちの一人でも見つけられればそれでいいのだが、生憎それがとても難しい。 立ち止まって考え込んで、ハッとしてまた歩きだす。 考え事などしてボサッとしている場合ではない。 自分もどこかに身を潜めないといけないのだ。 おそらく両国橋は越えている筈だ。 あの先には同志が多い。 桧神に行くのが一番だろうが、生憎坂本は両国橋一体はとんと地理に疎い。 『吉原じゃったら隅から隅まで歩きつくしちゅうのやけどなぁ・・・。』 そんな、どうでもいい事が坂本の頭をよぎった。 とりあえずこうしていても始まらない。 引く事は出来ない。 銀時と桂が一刻、遅ければ二刻後にあの寺につく事はわかっているけれど。 ・・・けれど。 「どがな顔して・・会えばえいがだ・・・。」 今はまだ、会えない。会いたくない。 それが自分への甘えだと坂本は頭では理解していた。 懐のかさばった感触が、その甘さを助長させた。 二人と会うのは、ケジメをつけてから。 とりあえずは高杉と合流する事を決め、坂本は土手を降りていった。 -------------------- 「証なるものを。」 屋敷と屋敷の間の細い路地、裏戸のある場所に重い雰囲気が立ち込める。 どうやら使いは無事に桧神に伝言を果たしたようだ。 高杉は深く被っていた傘をあげ、 「沙世のおひいさまは元気か?」 とだけ、のたまった。 番らしき男が、一瞬顔を顰める。 しかしそこで入れないわけにもいかないので、素直に裏の戸を開き中に高杉らを招いた。 「御屋形様は奥の部屋でお待ちだ。急ぐように。」 「おぉ、悪いなァ旦那。」 屋敷は朝方という事で、下働きの女がせわしなく歩き回っていた。 高杉は無遠慮に廊下を突っ切り、奥の襖をこれまた遠慮なくスパァンと開けた。 突然入ってきた無法者に、部屋にいた家来の男が驚いて刀に手をかける。 まあ、当然の反応であろう。 「なっ、何者!!!」 「よい、よいのだ榊。高杉殿、久しぶりであるな。」 「なっ・・・高杉殿か。老体を驚かせるでない。」 「あぁ、すまねェ。親父殿も榊の爺も、変わりないようで安心したぜ。」 「うむ。此度は大変な事となったな。我々も少々報せを掴むのが遅れた。 許してくれ。」 「親父殿のせいじゃあねぇよ。俺らが油断してたせいでもあらァ。」 「そう言ってくれると、こちらも気が楽だ。 連れの志士はこちらで預かろう。安心してくれ。」 「ありがてェ。」 そう答えると、高杉は刀を袴から抜いて手に持った。 どっかりとあぐらをかいて座り、しゃんと背筋を伸ばす。 手は両膝に添え、帯刀していた二本の刀はわきに置いた。 それは”親父殿”ではなく、桧神家当主忠久に対するという事でもある。 「して、状況はどうなのだ。」 「正直最悪だ。ヅラと銀時の出払ってる隙に力押しで一気に落とされた。 今頃寺は消し炭だろうよ。」 「・・・志士たちは。」 「十は死んじまっただろうな。残りの二十は俺ら含めて、それぞれ今は散開してらァ。 ・・・坂本は、運が良けりゃ生きてっだろ。 明日の夜九つ半に、王子の花三番で落ち合う予定だ。」 「・・・・そうか。坂本殿まで。」 「あの馬鹿は、死にゃしねェよ。」 「・・・うむ。 では、我々は出来るだけ奴らの動きを探ってみよう。榊。」 「・・はっ。」 榊と呼ばれた家来は、小さく会釈して部屋を出て行った。 それを見送り、高杉は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、立ち上がる。 「親父殿。世話になるついでと言っちゃァなんだが、もう一つ頼まれてくれねェか。」 「何だ?」 「ヅラと銀時が来たらよ、王子の花三番に夜九つ半に来るよう伝言してくれねェか。 もし来た日が遅れてたら、花五番で頼む。」 「高杉殿はどうするのだ。」 「・・・・しょうがねぇから坂本の馬鹿野郎を捜しに行く。 アイツならぜってぇここまで来る筈だろうからなァ。 会えてもそうでなくも、ここには戻ってこねぇ。あいつらを頼むぜ、親父殿。」 「・・・本当に・・相変わらず鉄砲玉のような男だな、君は。」 「自分でもわかってらァよ。」 馬鹿だって事は。 何だかんだ言っても、結局の所高杉は”優しい”男なのだ。 忠久は入ってきたときと同じように勢いよく襖を開けて帰っていく男の背中を、眩しそうに見つめていた。 |